LIVE!in LONDON and PARIS OTIS REDDING LIVE!in LONDON and PARIS OTIS REDDING

ライブインヨーロッパとどこが違うのかよおわからんが音がクリアの気がする。生き生きしとる。1967のわけで何でこんなに生き生きしとるのかよおわからんが、しかし確かに30minの芸能として最高級、最上級 無駄なし 1minもあきさせない。音楽芸能というものは1967から40年、進歩したのだろうか?というとまあ確かに”ビートルズが一等良い”といって終わってしまうのと同じなわけであるがそれはそうとビートルズが後期作り変えてしまったロック音楽の作りかえる前のロック芸能の完成系というか、ビートルズもオーティスに較べればベイシティローラーズと同じようなモンだった訳で、ロック芸能のフォーマットとスタジオ技術かなんか知らんがロック芸能に私小説を持ち込んだロック音楽を作ったビートルズかディランか知らんがつまりその私小説部分は日本人の琴線にも十二分に引っかかるわけでそういう私小説ロックは40年後の日本でいまだ人気な訳でしかしまあビートルズやキンクスは当たり前のことだがロック芸能を十二分に体感、会得していた訳でロック世代間というのは10年と考えていいのやろかその辺のゲーノーと芸術の塩梅というのは世代間で順にずれてくい訳で こうゆうロック芸能についての伝承は稀やもしれんがしかしまあ時代を超えとるわけでコーユーのの後継者はホントニいないのやろか?

30-35minのパッケージショウ、どこでも大体似たようなショウを繰り広げたんやろう。 昔、渋谷陽一がラジオで オーティスは1曲ですでにアンコールみたいな雰囲気にさせてしまう、そこが凄いといっていたが、しかし30min程度のショウなら最初からとばしてつかまにゃすぐ終わってしまうわけで2時間コンサートももちろん良いが曲凝縮すりゃ3minやろしいい曲凝縮すりゃ10曲やろし、いい曲なら人の曲やるようやろし、お客喜ぶやろし、つまり確かに瓦乞食の芸事やし、つうことで究極のプロの仕事な訳でロックンローラーは人と違って社会に反逆して社会システムに属することなく霞み食って生きてるつうわけわからん世迷いごとは1ミリも感じさせないプロの仕事な訳で

コンサートでは新曲も入れて人々に最近の事柄を、感じたことを伝えるのもいいやろう、それが発信でそれなきゃ何もない、つまり何も入ってこないから何もでてこない空っぽ、バンドやる意味ない、その意味ではバンドも何も表現じゃ、つうのはたしかにそのとおりであるのだがしかしまあ ライブつうのは30minロックミュージックに乗りにきてる人もいるわけで、表現とマスターベーションは紙一重なわけで、いや寧ろ表現はマスターベーションの一ジャンル、完全に包含されとるといえるわけでそれをライブで聞かせるのはマスターベーションに付き合わせるようなものなわけでその意味では音源は表現でいいけれど ライブではのりの良い、いい曲を1minも無駄にせず立て続けにやって、嵐のように帰ってくれ つうのは そーユー 40年前のオーティスたちの態度つうのは270%正しいのではないかと思ったりした。もっとも表現もくそもなく地方の呼び屋にごみのように扱われてたやもしれんオーティスたちはつまり確かに完璧なショウをやってどんな客も乗らせて返さなきゃあかん厳しい環境やったっつうことやもしれんが・・・

ビートルズがややこしくしてから40年、LPがCDになってそんで1曲づつネットで購入するようになってロック音楽はジャケットを含めた表現でなくなり確かに大衆音楽としての音楽の真の姿に戻りつつあると勝手に感じる今日この頃、中世のさげすまれた遍歴楽師の姿が本当だとは思わないけれど確かに高尚なクラシック音楽ではなく人々を3分間だけいい気持ちにさせる形なきものが大衆音楽なわけで3min間で勝負するっつう、ライブは30minで勝負するっつうそういう芸能音楽の方向にいくんやないやろか、現在、ライブハウスでは表現者満載ではあるがそんで確かに好みの違いではあるのだが"興味のない表現者、だめな表現者、出来損ない表現者、マスターベーション500%表現者 満載であるのだが しかし確かに 登竜門 な訳でそれで良いのやろが そして確かに筆者も全くのマスターベーションなんちゃって表現者の隅っこの端くれのチリのつもりでもあるのだが よースルにたまにはライブハウスで オーティス、MG'sみたいな芸能バンドにあってもいいのやないか、と思ったりもするが いや確かにこれは世界遺産級なので無理なわけだが せめて 腰の低い芸能ハードロックバンドとか時々紛れてくれんかなと自分が感じる理由はなんとなく自分の中で合点がいったような気がした。

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